2017年02月28日

フローラ・ハイマン〜日本のコートで息を引き取った米バレーボール選手〜


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◆フローラ・ジーン・ハイマン(Flora Jean Hyman 1954年7月31日生)
 [アメリカ・バレーボール選手]


 カリフォルニア州イングルウッド出身。13歳のときに1m83cm、大人になった段階で1m96cmの身長となった。イングルウッドのハイスクールを卒業後、ヒューストン大学に進学したが、バレーボールのキャリアを優先するために卒業はしなかった。彼女はその点についてバレーボールからの引退後、60歳になってからでも大学に行くことができると発言している。

 1974年に米国女子代表入りしたが、1980年のモスクワオリンピックには、アメリカがボイコットを決定したため出場を逃した。1981年のバレーボールワールドカップ、1982年のバレーボール世界選手権に出場、銅メダルを獲得した。彼女のスパイクは時速180kmであったと測定されている。1984年ロサンゼルスオリンピックでは最も年長でかつ長身の選手としてアメリカ代表を牽引し決勝で中国に敗れたものの銀メダルを獲得した。

 1982年11月、ダイエーにバレー部が誕生したときに来日。ダイエーのアタッカーとして活躍した。1986年1月24日の日本リーグの日立対ダイエー戦で試合中に意識を失い、病院へ救急搬送された。集中治療室で心臓マッサージが施されたが、そのまま帰らぬ人となった。死因は当初心臓発作と見られていたが、その後の検査でマルファン症候群による大動脈解離と判明した。遺体は1月24日深夜に陸路で大阪に搬送され、ダイエー練習場でファンや関係者の弔問を受けた後、27日に伊丹空港から無言の帰国となった。ハイマンの死はアメリカでも大きな反響を呼び、1月31日にロサンゼルスのトリニティ・パブティスト教会で行われた葬儀は全米に放送され、自宅にほど近いイングルウッド公園墓地に埋葬された。

 1986年1月24日死去(享年31)


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ジョセフ・キブウェテレ〜カルト大量殺人首謀者の失踪〜


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◆ジョゼフ・キブウェテレ(Joseph Kibweteere 1932年生)
 [ウガンダ共和国・カルト指導者]


 長年に渡り敬虔なカトリック信者であり、ローマ・カトリック教会の神父をしていたジョゼフ・キブウェテレは、1984年頃からキリストと聖母マリアから啓示を受けたと主張するようになった。この発言をめぐってカトリック教会と仲たがいして破門されると、1989年に「神の十戒の復活を求める運動」を立ち上げた。ウガンダ南西部の町カヌングの郊外に教団の本部を設立すると、聖母マリアから「1999年12月31日にこの世が滅びる。信じるものだけが天国に行くことができる」というメッセージを聞いた、と説いて回り信者の獲得活動を行った。入信の際は全財産を捧げるように信者に要請し、その集めた資金で教団の敷地内に学校、店、農場などを建設した。地元警察は「信者たちはみな真面目で、よく働き、危害はない。周囲の村に対して手本となる良いコミュニティ」だとして教団を歓迎すると、貧しい層を中心に入信者が増えていった。1999年当時には約5千人程度の信者が存在していたとされる。

 ジョセフは信者たちに会話する事を認めず、手話を使うことを強要した。人間の会話には不可避的に嘘が混じってしまうので、「嘘を言ってはならない」というモーセの十戒の項目に反してしまうのを避けるためであった。また、「この世の終わりが近づいている」という理由で子どもを産むことを禁じ、男女間の性行為は夫婦であっても一切許さなかった。食事は1日に2回、石鹸の使用を禁じ、信者全員に緑色のユニフォームを着用させた。

 しかし、1999年12月31日が何も起こらなかったため、ジョセフは「マリアからXデーを延ばすという啓示を受けている。その日は2000年3月17日だ」と主張を改め、2000年3月17日に備える名目で新教会の建設に着手し、信者たちに「この教会は来るべき大惨事においてノアの方舟の役割を果たすであろう」と説教していた。

 教団に対し疑問を持つ信者に対しては毒入りコーラを飲ませ殺害し、遺体を教会の床下や壁の中に遺棄した。やがてその行為が日常茶飯となっていった。そして2000年3月17日朝、信者たちに対し、「もうすぐこの世の終わりがやって来る。一緒に天国へ行こう」と訴え、信者全員を新教会へ集合させた。その直後、爆発音と共に建物から出火、新教会は瞬く間に炎に包まれ、信者全員が焼死した。遺体は炭化したものや完全に灰になってしまったものばかりで、正確な死者数は分かっていないが、毒殺された人数を合わせて約4千人が亡くなったとされている。

 事件当初は集団自殺だと見られていたが、その後の捜査の結果、大量殺人であることが判明した。屋外のトイレの穴から毒殺された数体の遺体が見つかったが、身元が特定されないように硫酸で顔を焼かれた上、コンクリートを流し込んで見つかりにくいように処置されていた。その他、新教会の窓やドアに板材が打ち付けられ閉鎖されていたことや、事件直前に教団本部近くの店から大量のガソリンを購入していたことが明らかになった。

 ジョセフは信者と共に死亡したのか、逃亡したのかは明らかになっていないが、事件当日、カバンを持ってバス亭に向かうジョセフを見たという証言もあるため、財産を持って逃亡した可能性は高い。ウガンダ当局はジョセフが自分に対して批判が高まったため反対派を殺害し、その他の信者も集団自殺に見せかけて殺害した後、自分だけ逃亡したと推定し、彼を国際刑事警察機構(インターポール)を通じて国際手配した。

 事件後、予算不足によりおびただしい数の遺体をその場にむき出しのまま放置したり、強烈な悪臭を放つ遺体の掘り起こし作業を囚人たちに行わせたとして、地元警察やウガンダ政府は「神の十戒復古運動も最悪だが、ウガンダという国のシステムも最悪だ」と海外から批判されることとなった。


posted by 亀蔵 at 08:10| Comment(0) | 行方不明 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月27日

スーザン・キャボット〜小人症の息子に撲殺された女優〜


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◆スーザン・キャボット(Susan Cabot 1927年7月9日生)
 [アメリカ・女優]


 マサチューセッツ州ボストンでロシア系ユダヤ人の家庭に生まれる。子供の頃は里子として8つの異なる家庭や児童養護施設で育った。義務教育を完了したのち、ニューヨーク州でイラストレーターをしながら、劇場でも働いていた。1947年、映画『死の接吻』に端役で出演。その後、ハリウッド女優を志してロサンゼルスに移り、ユニバーサル・ピクチャーズと契約した。しかし、出演作品は主にB級の西部劇映画ばかりで、スーザンは不満から契約を解除し、ニューヨークに戻り舞台活動を再開した。1959年にはヨルダン国王のフセイン1世・ビン・タラールと結婚を前提に交際し注目されたが、スーザンがユダヤ人であることが発覚し、ヨルダン国民の反ユダヤ感情に配慮をして関係を断った。

 1986年12月10日、カリフォルニア州エンシーノの自宅寝室で睡眠中、息子にバーベルで殴り殺された。息子は生まれた時から小人症で、成長ホルモンやステロイドを使っており、精神的に不安定だったという。スーザンの小人症の息子(1964年生まれ)が彼女を殺害した容疑で告発されると、フセインは密かに関係が続いていた自分が父親ではないかと勘付いたが、証拠は何もなかった。その後、息子は過失致死罪で起訴され、3年間の執行猶予を受けた。

 1986年12月10日死去(享年59)


posted by 亀蔵 at 20:41| Comment(0) | 他殺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする