2017年03月31日

ピア・アンジェリ〜ディーンの生涯唯一の恋人だった女優の死〜


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◆ピア・アンジェリ(Pier Angeli 本名:アナ・マリア・ピアンジェリ 1932年6月19日生)
 [イタリア・女優]


 イタリアのサルデーニャ島・カリャリ出身。美術学校を卒業した後、女優を志す。父親は娘が芸能人になるのに反対であったが、母親がステージママの役を買ってでて、16歳のときにイタリア映画でデビューした。とくに1950年のヴィットリオ・デ・シーカの映画『明日では遅すぎる』ではイタリア映画のネオ・レアリスモ運動の大きな原動力となったこの作品の評価と商業的成功に多大に貢献、これが1950年代の米国進出(メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約)のきっかけとなる。MGMではポール・ニューマンの『傷だらけの栄光』でヒロインを演じるなど清純派女優としてハリウッドで活躍した。それ以降はイタリアを中心にヨーロッパ映画に出演。

 その後、『エデンの東』を撮影中だったジェームズ・ディーンと恋に落ちるが、ピアの母親の反対(アンジェリ家はローマ・カトリックだったがディーンはカトリックでなかったことが原因だったといわれる)などもあって別れたことは有名。1954年、歌手兼俳優のヴック・ダモーンと結婚して息子をもうけたものの、ダモーンが義母の干渉しすぎを嫌い、1959年に離婚。離婚直前には息子の親権を巡って泥沼の裁判劇を繰り広げた。

 その後は米国映画の作風の変化(暴力・性的表現の過激化など)についていけなくなったことから、イタリアに戻りヨーロッパを拠点に女優として活動を再開する。1962年2月14日、音楽家アルマンド・トロヴァヨーリと再婚し、翌1963年1月8日、ふたりの間に息子が生まれた。その後、歌手としてアルバムなど作品リリースを行なうなどするも人気・仕事では低迷・不遇が続き、結婚生活もうまくいかず、1969年に夫アルマンドと再び離婚した。

 ハリウッドに戻り再起を期したが、結婚の破綻による鬱症状、女優人生の行き詰まりからくる神経症などに悩まされ、医者から処方された精神安定剤を服用するようになった。そして1971年、睡眠薬であるバルビツール酸系薬物の飲み過ぎ(自殺説もあり)で亡くなった。遺体はフランスに埋葬された。

 1971年9月10日死去(享年39)


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2017年03月30日

バイソン・デリ〜兄に殺害されたバスケットボール選手〜


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◆バイソン・デリ(Bison Dele 1969年4月6日生)
 [アメリカ・バスケットボール選手]


 カリフォルニア州フレズノ生まれ。同州サンタモニカの高校に進学した。ここでの彼の背番号は永久欠番となっている。メリーランド大学で1年プレーした後、アリゾナ大学へ転校、2年プレーした後、1991年のNBAドラフト1巡目全体10位でオーランド・マジックに指名されて入団した。マジックでは2シーズン限られたプレータイムしか与えられなかった。

 1993〜1994シーズンにデンバー・ナゲッツへ加入、このシーズン80試合に出場し平均8.0得点をあげた。1995〜1996シーズンにはロサンゼルス・クリッパーズに加入、平均15.8得点をあげた。契約で難航し、1996〜1997シーズン開幕時にはどのチームとも契約を結べなかった。シーズン終盤にシカゴ・ブルズと契約しレギュラーシーズン9試合に出場、重要な控え選手としてブルズのNBAファイナル5回目の優勝に貢献した。

 その後2シーズンをデトロイト・ピストンズで過ごし現役を引退した。1997〜1998シーズンには自己ベストの平均16.2得点、8.9リバウンドをあげた。1998年に先祖のアメリカ先住民にちなんで、ブライアン・ウィリアムズからバイソン・デリと改名し、その名前でプレーした。彼はピストンズと5年間3645万ドルの契約を結んでおり、チーム1の高給取りであったが、1999年に突如引退した。

 2002年7月、自身の所有する55フィートの双胴船「Hakuna Matata」でガールフレンド、兄、艇長の4人で航海していた。彼やガールフレンドは銀行や家族へ定期的に連絡を取っていたがモーレア島、タヒチ島からトゥアモトゥ諸島、マルキーズ諸島を経由してハワイのホノルルへ向かう途中、7月8日以降消息不明となった。7月20日、彼の兄がただ一人ボートでタヒチにたどり着いた。

 8月31日、アリゾナ州フェニックスのコインディーラーに向けて15万2000ドルの小切手が振り出されていることが判明した。警察は9月5日、弟のパスポートやクレジットカードを持って、取引に訪れた兄を逮捕したが、のち証拠不十分で釈放した。「Hakuna Matata」はタヒチで別の名前で登録されており、船のネームプレートが取り外され、色が塗り替えられ、タヒチのタラヴァオで発見された。船体にいくつもの穴が開いていた。同じ頃、兄は母親に対して自分は弟に危害を加えていないこと、刑務所の中では生きられないと電話で伝えた。

 FBIはフランス当局と共同捜査を行い、デリら3人は兄に殺された後、海に放り捨てられたものと判断、太平洋上で捨てられた3人の遺体が見つかる可能性は低いであろうと判断した。しかし、兄はインスリンの過剰摂取を行い、意識不明で9月15日にメキシコ警察によってティフアナのホテルで発見された。意識が回復することなく、9月27日にカリフォルニア州の病院で死亡。真相は闇の中に消えた。

 兄のガールフレンドが捜査官に語ったところによると、船上で2人の兄弟は対立し、兄が3人を殺害し、海に投げ込んだこと、金の購入に失敗した後、彼をメキシコ国境まで逃がしたことを告白している。

 2002年7月7日死去(享年33)


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2017年03月29日

野口英昭〜闇に葬られたライブドア事件のキーマン〜


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◆野口英昭(のぐちひであき 1967年3月17日生)
 [エイチ・エス証券副社長/エイチ・エスインベストメント代表取締役]


 東京都生まれ。明治大学政治経済学部卒業。ライブドア幹部を経て、2002年エイチ・エス証券に入社。当時、ライブドア代表取締役社長CEOであった堀江貴文の側近とも呼ばれていた。

 ライブドアの証券取引法違反事件発覚後の2006年1月18日、那覇市内のカプセルホテルで死亡。野口は、一連のライブドア事件のキーマンとして注目されていた人物で、東京地検特捜部による強制捜査の2日後の出来事だった。

 死亡時の状況は、野口の宿泊場所の非常ブザーが鳴り従業員が入ったところ、腹や首、手首など数ヵ所から血を流して倒れており、刃渡り10センチの包丁が残されていたという。死因は失血死。

 翌19日、沖縄県警が自殺とみて捜査の打ち切りをマスコミに発表した。しかし野口の行動や状況に不可解な点が多い。
 ・カプセルホテルに「山崎四朗」という偽名でチェックイン、住所欄に堀江貴文の出身地である「福岡市八女」と嘘の記載をしていた。
 ・そもそも、なぜ沖縄の1泊3800円のカプセルホテルで自殺をしたのか?
 ・自殺しようとする人間が、自殺を難しくする睡眠睡眠薬や氷を購入していた(睡眠薬を飲むと眠気で思うように自殺ができない)。
 ・「もうすぐ帰る」と自宅に電話をしている。
 ・傷は頚部の2箇所に各5cm、左手首に5cm、腹部に7cmあり、腹部からは腸が飛び出していた。傷口がパックリと空いている状態で、ためらい傷というより、深さ1.2cmの本格的な傷だった。これだけの傷を自分でつけることができたのか?
 ・非常ブザーのボタンには血の跡ひとつついていなかった。

 このように他殺の線も否定出来ない状況下で沖縄県警は、検死のみで司法解剖することなく、自殺と処理したが多くの者が疑問を抱いている。

 堀江貴文は野口の自殺を知ったとき、「マジかよ」といったきり絶句してしまったといわれていて、それまで比較的オープンだった堀江のスケジュールは突然公表されなくなったという。

 ジャーナリストの須田慎一郎は沖縄での現地調査から、野口は誰かに脅されるかたちで自殺したのではないかと結論づけている。

 2006年1月18日死去(享年38)


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