2017年04月26日

江青〜服役中に自ら命を絶った毛沢東夫人〜


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◆江青(こうせい 1914年3月生)
 [中国・毛沢東の4番目夫人/女優]


 中華民国の山東省諸城県で生まれ、済南市の中流家庭で育つ。良家への結婚を求めた母は、彼女に纏足を施したが、彼女はすぐにこれを解いた。演劇学校に進んだのち青島大学の図書館で副司書として働く。1931年に最初の結婚をするも2ヶ月で離婚した。この頃青島大学での学生運動の指導者で共産主義者であった兪啓威(黄敬)と知り合い同棲するようになる。その影響で1933年に中国共産党に入党した。しかし同年、その愈啓威が中国国民党政府に反政府活動のかどで逮捕され死刑宣告を受ける(後に釈放)。

 その後一時済南に戻ったが、後上海へ移った。その後、上海において「藍蘋」の芸名で女優活動を始める。上海の外国租界における社交界でも有名人となり、「ブルー・アップル」と呼ばれ持て囃された。

 1934年に俳優・映画監督・映画評論家で知られた唐納と結婚した。結婚式は趙丹ら当時の上海芸能界のスター3組の合同結婚式であり、たいへん華やかなものであった。しかし結婚生活はうまくいかず、挙式2ヶ月後には藍蘋は他の男性のもとへ走る。唐納は精神的に不安定になり、2度自殺未遂を起こしている。これらの騒動は大スキャンダルとなり、姦淫を犯した藍蘋が上海芸能界で活動することは事実上不可能になった。

 1937年にようやく夫妻の離婚が成立したが、8月には第二次上海事変が勃発。藍蘋はかつて同棲していた愈啓威と共に上海から脱出し、中国共産党の本拠地延安まで歩いて移動した。この時から藍蘋は「江青」と名乗っている。

 延安に到着後、魯迅芸術学院で演劇を教えていた。かつての人気女優であった江青は都会的で比較的スリムな美人で、男ばかりの延安で羨望の的だったという。やがて毛沢東と出会い、二人は交際を開始するようになった。この時江青は25歳、毛沢東は45歳だった。しかし当時の毛沢東は賀子珍(毛沢東にとって3番目の夫人)と結婚しており、江青との関係は不倫であった。毛沢東は賀子珍と離婚して江青と結婚をすることを決めた。しかし不倫関係が元であり、さらにスキャンダルで広く知られた江青を毛沢東の妻とすることに対する危惧感が、朱徳や周恩来といった幹部達の反発を招くことになる。結局、毛沢東は結婚の条件として江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。幹部たちの反発はあったものの、日中戦争真っただ中の1939年に毛沢東と江青は正式に結婚した。翌1940年には1人目の娘の李訥が生まれた。

 国共内戦の結果、1949年に毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなった。が、建国時期、体調を崩しソ連で療養生活を送る。しかし1960年代前半から、江青は政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。当時、毛沢東が複数の女性との関係を持っていたために、夫妻は事実上離婚状態となっていた。そのため毛沢東は江青をなだめる必要があり、他の党幹部も政治活動を容認したという。江青は王光美や宋慶齢といった有能な政治家にライバル心を持った。1962年人民日報に初めて毛夫人として取り上げられ公けにされた。

 数千万人の餓死者を出した大躍進政策の失敗で国家主席から失脚した毛を支え、劉少奇の打倒を毛に勧めるようになった。やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、「紅色女皇」と呼ばれ世界中に悪名を轟かせることになる。1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。この背景として、女優として活動していた彼女はそれなりの評価をもらっていたものの、正当な演技の訓練を受けていない自分を「演技派女優」として高く評価してくれなかった演劇界に対して個人的怨嗟があったといわれる。

 1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落しめ、張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。嫉妬深く自分より優れた所のある女性には容赦なく攻撃し、劉少奇夫人の王光美を失脚させたり、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめた。江青は個人的に伝統芸能を好んでいたが、それを自分以外から取り上げることにまったく良心の呵責を感じていなかった。文革中は伝統芸能の打破を積極的に進めていたが、自身は景徳鎮などを愛し、熱心に収集していた。

 さらに、1976年には復活した 小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の1人として逮捕された。1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判にかけられ、1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。1983年には無期懲役に減刑された。

 1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄でガンの療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの戦友が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

 自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を説得し、北京の北京福田共同墓地に埋葬された。また、葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とは分からないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

 死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。

 1991年5月14日死去(享年77)


posted by 亀蔵 at 07:37| Comment(0) | 自殺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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