2017年06月04日

メアリー・ベーコン〜災難続きで自殺を遂げた美人騎手〜


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◆メアリー・ベーコン(Mary Bacon 1948年1月1日生)
 [アメリカ・騎手]


 イリノイ州シカゴ生まれ。酒飲みの父は何度も職を失い、一家は西部の各地を転々として暮らした。その後オハイオ州に移り、そこで育った。馬とは縁のない家庭だったが、メアリーは近所の農場で馬を乗りこなす活発な少女であった。16歳でディズニー映画の馬を見て競馬に興味を持ち、イギリスの騎手学校への留学資金を稼ぐために競馬場でアルバイトをした。ハイスクール卒業後にイギリスに渡ってイングランドの騎手学校で訓練を受けたのち、1967年頃からデトロイトの競馬場で騎手としてのキャリアをスタートさせた。

 しかし、当時のヨーロッパや日本の地方競馬では女性騎手が登場し始め参戦していたが、アメリカ競馬界は封建的で、騎手免許を取得した女性騎手ペニー・アン・アーリーに対し、男性騎手がストライキを起こすなどして抵抗し、まともにレースで騎乗することができないというありさまであった(ペニー・アン・アーリーは一度もレースに出場することなく引退している)。このように完全なる男尊女卑の社会であったアメリカ競馬界において、メアリーも同様にレースデビューできない不遇の日々を過ごすこととなった。その間、メアリーは同僚のジョニー・ベーコン騎手と結婚、1969年3月には娘を出産した。陣痛の2時間前まで調教で騎乗しており、出産後わずか2週間で騎乗を再開したという。

 1960年代後半からアメリカでは女性解放運動(ウーマン・リブ)が起こり始め、女性の労働の自由が認められるようになった。その影響から競馬界においても不当な男女差別が問題視され、1969年に女性騎手の出場が許されるようになった。そしてついに念願のレースデビューを果たしたメアリーは、同年6月5日に初勝利を挙げると今までの鬱憤を晴らすかのように非凡な才能を発揮し、東海岸を中心にシーズン396回の騎乗で55勝を挙げる好成績を残した。

 メアリーの活躍がアメリカの女性解放運動の象徴として大々的に取り上げられると、メアリーは女性騎手としての活躍のみならず、その美貌からも注目され、スポーツ誌は勿論、そのほかファッション誌の『Vogue』でも特集が組まれ、娯楽雑誌の『PLAYBOY』ではヌードを披露したこともあった。また、化粧品メーカー『レブロン』と契約し、同社の広告塔としても起用された。

 人気・実力ともに充実するメアリーだったが、1975年に人種差別団体として悪名高い「クー・クラックス・クラン(KKK)」の集会に参加したという疑惑が浮上。この件で大バッシングを受けると、メアリーの人生はこのあたりから暗転を始める。1974年に323回あった騎乗依頼は1975年に143回、1976年は38回にまで激減した。前夫のジョニー・ベーコン(1972年に離婚)が1977年に自動車事故で死亡。1978年11月には大井競馬場の招待競走で来日し、1週間で24戦6勝という好成績を挙げるも、翌1979年5月にゲートの故障がもとで落馬し馬に踏まれて大怪我を負い、1982年6月10日には落馬による頭部外傷で8日間意識不明に陥る事故に見舞われた(以後傷の後遺症に悩まされることとなる)。また、厩務員の少年に乱暴されたりなど、さまざまな困難が続いた。更に、これに追い討ちをかけるように子宮頸癌に罹ってしまう。

 これ以上の乗馬がかなわないと悟ったメアリーは、1991年6月7日、テキサス州フォートワースのモーテルでピストル自殺を図り、翌8日搬送先の病院で死亡した。遺言により遺体は火葬され、遺灰はベルモンドパーク競馬場のゴールラインの上に撒かれた。そこは予後不良で世を去った名牝ラフィアンが埋葬された目の前であったという。

  1991年6月8日死去(享年43)


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2017年05月21日

平和日佐丸〜妻の後を追い自殺した漫才師〜


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◆3代目平和日佐丸(へいわひさまる 本名:溝畑勲 1933年生)
 [漫才師]


 兵庫県生まれ。1954年に宝塚新芸座に入る。1956年秋に秋田Aスケ門下となり秋田Oスケと名のる。その後、横山ノック(秋田Kスケ)と漫才コンビ「秋田Oスケ・Kスケ」を結成。京都新京極・富貴で初舞台。1958年に松竹芸能に移籍。解散後、平和ラッパ(2代目)とコンビを結んで平和日佐丸(3代目)に改名。「ラッパ・日佐丸」の全盛期を築くが、ギャラの配分を巡って紛糾し、コンビを解消。

 のち、美人漫才師であった波多フラット(元園蝶世・花世の花世)とコンビを組み、その後、三田ホップの名で「三田ホップ・ステップ・ジャンプ」のトリオを結成。その後足の病気を患い入院。1968年に妻が不倫の末駆け落ちして失踪しそのまま心中自殺。これにショックを受け、後を追うように自殺した。

 1968年?月?日死去(享年35)


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2017年05月14日

野沢尚〜謎の自殺を遂げた人気脚本家〜


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◆野沢尚(のざわひさし 1960年5月7日生)
 [脚本家/小説家]


 愛知県出身。父親は、京都大学名誉教授で京都大学霊長類研究所の所長も務めた生物学者・野澤謙。愛知県立昭和高等学校、日本大学芸術学部映画学科卒業。シナリオライターになろうとしたきっかけは、中学時代から映画監督志望で、8ミリカメラで自主映画を作っていたが「映画はまずシナリオありき」と思い立ち、独学で始めたことであるという。1983年、映画『V・マドンナ大戦争』が第9回城戸賞に準入賞したことがきっかけとなり、プロの道を志すようになった。1989年、北野武の映画監督デビュー作『その男、凶暴につき』の脚本を手掛けたことでも知られている。テレビドラマや映画の脚本で高い評価を受ける一方、ミステリー小説にも幅を広げ、1997年に小説『破線のマリス』で第43回江戸川乱歩賞を受賞。1998年、『眠れる森』『結婚前夜』で第17回向田邦子賞を受賞した。

 2004年6月28日、東京都目黒区の事務所マンションで窓の取っ手に紐のようなものをかけ、首を吊って死んでいるところを妻によって発見された。野沢の突然すぎる謎の自殺は芸能・放送界に大きな衝撃を与えた。自殺の2ヶ月前に放送されたテレビドラマ『砦なき者』には、自殺をほのめかすかのようにテレビ業界への絶望が描かれている。自殺した際には知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残された。

 2004年6月28日死去(享年44)


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posted by 亀蔵 at 21:15| Comment(0) | 自殺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする