2017年06月02日

ムハンマド・ナジーブッラー〜局部を切り取られ車で引きずり回された政治家〜


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◆ムハンマド・ナジーブッラー(Mohammad Najibullah 1947年8月6日生)
 [アフガニスタン・政治家]


 パシュトゥーン系のギルザイ部族連合アフマザイ部族出身で、部族長の孫としてカーブルで生まれた。ナビブッラー高校を卒業した後、カブール大学で医学を学んだ。1965年には共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党(PDPA)に入党し、パルチャム派に属する。政治活動に携わりながら、1975年に大学を卒業した。1977年には党の中央委員会に入り、幹部となった。

 その後、1978年にPDPAによるムハンマド・ダーウード政権打倒のクーデターが成功したが、PDPA内はハルク派とパルチャム派に分かれており、このクーデターで支配権を得たのはハルク派であった。ナジーブッラーは駐イランアフガニスタン大使としてテヘランに短期間赴任したが、やがて政治の世界から姿を消し、ヨーロッパに亡命した。

 1979年、ソ連のアフガン侵攻が起こると首都カブールに戻り、翌年には秘密警察KHADの長官に任命された。このナジーブッラーの下で、数万人に及ぶアフガン国民がKHADにより逮捕、拷問、処刑されたとされる。

 1986年5月4日、バーブラーク・カールマル革命評議会議長が失脚すると、ナジーブッラーは同議長に就任。また、1988年11月29日、ロヤ・ジルガにおいて大統領に選出された。しかし、1989年にソ連軍が撤退すると、彼自身が任命した国防相によるクーデターが発生し、独裁的政治手法を緩めるなど懐柔策をとったが、ムジャーヒディーン勢力の抵抗運動に屈服し、1992年に大統領職を辞任。カブールから逃れようとするも、ラシッド・ドスタム将軍により阻まれる。結局ナジーブッラーはカブール市内の国連事務所の庇護下に置かれた。

 しかし、1996年9月26日にイスラム原理主義勢力ターリバーンがカブールを制圧し、政権を獲得するとナジーブッラーは国連が用意した逃亡用の自動車から引きずり出され、翌27日、アフガニスタンを混迷に陥れ、神の意思に従わぬ背信者などとして局部を切り取られた上に市内を車で引きずり回され、その遺体は吊るし上げられた。側近を務めていた実弟も同時に殺害され、共に遺体を吊るされた。

 1996年9月27日死去(享年49)


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2017年05月19日

ブイコー・タマーシュ〜薬品やハンマーやナイフで惨殺された柔道家〜


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◆ブイコー・タマーシュ(Bujko Tamas 1959年7月1日生)
 [ハンガリー・柔道選手]


 ブダペスト出身。1981年のヨーロッパジュニア60kg級で優勝を飾り、1983年の世界選手権では銀メダルを獲得した。1984年のロサンゼルスオリンピックはハンガリーがボイコットしたために出場できなかった。1985年には階級を65kg級に上げると、世界選手権で3位になり、1986年のグッドウィルゲームズでも3位、1987年の世界選手権も3位だった。翌年のソウルオリンピックでは5位で大会を終えた。

 ブイコーは2004年にロンドンに移り住むと、食品加工会社に勤務するようになった。2007年9月に元の家にあった所有物を引き取るために戻ったところ、そこに代わって住み始めた同じハンガリー出身のイフィ・フェレンツと口論になった。その際にブイコーはイフィをゲイ呼ばわりすると、イフィの友達が見ている前でイフィに腕緘を仕掛けて恥をかかせた。この時の負傷に関して医者は打ち身と診断したが、イフィは骨折したと主張している。しかし警察は何の対応もしなかったことから、ブイコーに対する復讐を計画することになった。

 2008年3月21日の早朝、ハーロウにある地下鉄のサドベリー・ヒル駅の外側でイフィはブイコーを見つけると、塩化カリウムをブイコーの顔に投げつけた。ブイコーは悲鳴を上げて地面を転がり回って助けを求めるも、イフィはお構いなしにブイコーへパンチを浴びせて踏み付けた。さらに、ハンマーで何度となくブイコーの頭部を含めた全身を叩きまくった。続いて2種類のナイフでブイコーの顔や目を切り裂いた。ブイコーがイフィを何とか振り払おうとするが、今度はブイコーの指を削ぎ落とし始めた。その後、イフィは警察に身柄を拘束されたが、ブイコーは死亡した。なお、これは多数の通勤者が見ている前での惨劇だった。裁判の結果、イフィは終身刑を言い渡されたが、何の改悛の情も示さなかった。それどころか、ブイコーに対する怒りが今だに収まらないと語っていた。

 2008年3月21日死去(享年48)


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2017年05月15日

白暁燕〜凄惨な殺され方をした女優の娘〜


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◆白暁燕(パイ・シャオイェン 1980年6月23日生)
 [台湾・白冰冰の娘]


 台湾の人気歌手、女優の白冰冰の(パイ・ピンピン)の一人娘として、日本人の漫画原作者梶原一騎との間に台湾で生まれたが、冰冰は暁燕が生まれる前に梶原と別居したため、暁燕は母冰冰の手元で育てることになった。成長するにしたがって、有名人である母親とともにテレビ出演する機会も増えた。

 1997年4月14日、暁燕は私立醒吾高級中学2年在学中に誘拐された直後、犯人グループから輪姦・暴行され、左手小指を切断された。母冰冰の元に輪姦された後の暁燕の半裸の写真と彼女の切断された小指、さらに助けを求める自筆の手紙が送りつけられ、500万アメリカ合衆国ドルの身代金が要求された。狙われた理由は諸説があるが、最大の理由は、長年に渡って台湾暴力団追放運動に携わっている白冰冰に対する報復であったといわれている。

 冰冰はなんとか身代金全額は揃えたが、現金の受け渡しに失敗。マスコミに情報が漏れ、中華日報と大成報が報道した為、引き渡し現場にマスコミが殺到する事態となり、暁燕は犯人グループのメンバーによって再度凄惨な輪姦・集団暴行を受け続けた果てに惨殺され遺棄された。

 4月25日に警察が犯人グループのアジトをつきとめて急襲し4人を逮捕したが、3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を取り逃がした。

 4月28日、台北近郊の河で両手両足を木杭にくくりつけられた暁燕の遺体が見つかった。膣と肛門には鉄パイプが突き刺さり、両手両足の爪はすべて剥がされ、目が抉り取られていた。内出血は数百ヶ所以上、顔は原形をとどめておらず、警察官すら凄惨さに驚いたという。遺体発見時の写真を一部の新聞が掲載し、身代金受け渡しの際のマスコミの不手際が殺害の原因になったため、メディアへの批判が高まった。時の総統李登輝は、「犯人らを発見次第問答無用で射殺せよ」との命令を発した。

 8月8日、逃亡中の犯人らは会社経営者を誘拐し、家族は警察に通報せずに身代金の支払いに応じて解放されるという事件を引き起こす。8月19日、台北市内で犯人グループ3人と警官800人との銃撃戦が起こり林春生が射殺された。10月23日、残る2人は台北市の整形外科病院で顔を強引に整形させた後、医師夫妻と女性看護師の3人を殺害して逃亡。11月17日、高天民が警官隊に包囲されると、再び銃撃戦を起こすが、逃げ切れずに拳銃で自殺した。最後の陳進興は11月18日、南アフリカ大使館の駐在武官官邸に人質5人を取って立て籠もり事件を起こした後投降し逮捕された。

 陳に対し板橋地方裁判所は1998年1月22日に5件の誘拐・殺人・強盗に対し死刑5回、別の暴行事件等で懲役刑合計59年9ヶ月を言い渡した。高等法院(日本の最高裁判所に相当)も1999年3月16日に遺族に対し1億7130万台湾元(当時のレートで約6億3000万円)の賠償命令を言い渡した。同年10月8日に陳の死刑が執行された。

 事件は台湾社会に大きな衝撃を与え、台湾の治安悪化が問題となった。警政署長は責任をとって辞任。事件に対するマスコミの興味本位の報道は惨殺を引き起こした原因とも言われており大規模な抗議行動が起こった。母親の白冰冰は事件後に手記「燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて」を出版。暁燕を記念して「白暁燕文教基金会」を設立、社会安全、道徳教育、誘拐被害者の心身のケアに関する法律の制定及び死刑の存続を訴え、事件の発生した4月14日に合わせて毎年活動を行っている。

 1997年4月19日死去(享年16)


posted by 亀蔵 at 22:13| Comment(0) | 他殺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする