2017年05月30日

三門順子〜キングレコードの第一号美人歌手の死〜


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◆三門順子(みかどじゅんこ 本名:富山静子 1915年9月25日生)
 [歌手]


 栃木県出身。長唄を習い、18歳の時、NHKのオーディションを受け合格。NHK文芸部、久保田万太郎の推薦でキングレコードに入る。1935年7月にキングレコードから「水兵節」でデビューしこの年から専属制度を設けたキングレコードの第一号歌手となる。1937年「さくら道成寺」「祇園絵日傘」、1939年「暁の決死隊」、1941年「筑紫の明月」、1947年「それで良いのよ」などがヒット。1938年に児玉好雄と吹き込んだ「愛馬行」(愛馬進軍歌のB面)が大ヒットする。またこの時期に井口小夜子と共にその美貌から「キングの名花2輪」とも称されていた。戦前・戦中期にかけて活躍する。その後、同キングレコード専属だった樋口静雄と結婚した。

 1954年4月4日、胆石痛で死去。

 1954年4月4日死去(享年38)


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2017年05月26日

穂積由香里〜積木くずしとその後の悲劇〜


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◆穂積由香里(ほづみゆかり 1967年12月16日生)
 [タレント]


 俳優・穂積隆信の長女であり、社会現象にもなった穂積隆信のベストセラー『積木くずし』のモデルである。

 1982年に発刊された『積木くずし』は、持病といじめにより、非行に走った由香里と両親の葛藤を赤裸々につづった手記。

 約300万部のベストセラーとなり、テレビドラマ化、映画化もされるなど話題を呼んだが、実名をさらされたことなどからかえって好奇の目やバッシングにさらされ、彼女自身の非行はエスカレートしていった。

 1983年にはトルエン所持で逮捕。覚醒剤取締法違反でも2度逮捕された。

 1986年に穂積由里の芸名でテレビドラマ『妻たちの課外授業』で女優デビュー。ヌードまで披露した芸能活動は成功せず、アメリカ留学中に知り合った男性と結婚するが、のちに離婚。クラブ「積木の家」を経営するなどしたが、亡くなる前は父とその再婚相手の後妻と同居し、知人のスナックの手伝いをしていたという。

 20代で腎臓を患って、十数年の闘病生活を送り、2000年には腎不全で入院。その年の秋には実母からの提供で生体腎移植を受ける。

 2003年8月18日、隆信夫妻と同居する都内のマンションの自室で亡くなっているところを発見された。行政解剖の結果、死因は多臓器不全で、13日夜から14日未明にかけて死亡したとみられる。35歳の若さだった。

 父は仕事先から帰京した8月20日に火葬場で遺体と無言の対面。棺には『積木くずし』を3冊入れたという。

 2003年8月18日死去(享年35)


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2017年05月12日

猫田勝敏〜病魔に倒れた伝説の名セッター〜


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◆猫田勝敏(ねこだかつとし 1944年2月1日生)
 [バレーボール選手]


 広島県生まれ。小学校時に、バレーボールを始める。広島市立安佐中学校時代では、9人制でセンターを務めていた。崇徳高校に進み、当時の監督の稲葉正文に、セッターとしての素質を見出される。1959年の1年生時に、国体高校男子で優勝を果たす。

 1962年、高校卒業後、地元の日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業広島支店)に入社。専売広島男子排球部(現JTサンダーズ)に入部した。直後に、当時の全日本男子監督、松平康隆の目にとまり、同年12月、18歳で初めて全日本に選出される。

 1964年、20歳で東京オリンピックに出場し、銅メダルを獲得する。これ以降、猫田は全日本の正セッターとして不動の地位を築いていった。1968年、再び松平監督の下で、メキシコオリンピックで銀メダルを獲得。1971年9月、翌年にミュンヘンオリンピックが迫っていた中、試合中に西本哲雄と接触し右腕複雑骨折をしてしまう。オリンピック出場が危ぶまれていたが、約8ヶ月のリハビリ生活の末に、オリンピック開幕2ヶ月前の1972年6月、NHK杯で試合復帰を果たした。

 そして同年8月、ミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得、日本バレーを世界の頂点に導いた。1976年のモントリオールオリンピックでは日本選手団の旗手も務め、競技では4位入賞を果たした。1980年、ブルガリアで開催されたモスクワオリンピック最終予選を最後に、現役を引退。長年のバレーボール界に尽くした功労を賞されて、同年6月、日本バレーボール協会より「バレーボール栄誉選手賞」を受賞した。

 引退して直ぐに専売広島の監督に就任し日本リーグから采配を振るっていたが、1981年に胃癌に蝕まれていることが発覚。1983年9月4日、病魔には勝てず39歳の若さでこの世を去った。

 努力家であり人格者でもあり、生涯をバレーボールに費やした。奇策「天井サーブ」を編み出したことでも知られる。練習、合宿、遠征、試合の連続で家族を顧みることも出来なかったが、それを思ってか胃癌に侵された際の闘病中に「かあちゃん、すまん」という言葉を残した。幻覚症状の出た死の直前の病床でも、ブロックサインを出し続けたといわれる。最期の言葉は「後1本・・・、後1本・・・」であったという。

 1989年、偉業を記念して猫田記念体育館が広島市に完成した。2001年には国際バレーボール連盟の「世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞」を受賞した。

 1983年9月4日死去(享年39)


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