2017年11月02日

アイリーン・ウォーノス〜刑死した女性連続殺人鬼のパイオニア〜


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◆アイリーン・ウォーノス(Aileen Wuornos 1956年2月29日生)
 [アメリカ・連続殺人者]


 ミシガン州ロチェスターに生まれたアイリーンは、不幸な子供時代を送ったといえる。父親に会ったことはないが、彼女の父親レオ・デイル・ピットマンは精神病を患い、児童を虐待した事もあったためカンサス州やミシガン州の精神病院に入退院を繰り返した。1969年、13歳の少女に対する強姦罪で有罪となり服役中に自殺した。アイリーンの母親ダイアン・ウォーノスは15歳のときにレオと結婚、キースとアイリーンの二人の子供をもうけるが、アイリーンが生まれる前に離婚。アイリーンが4歳のときに母親ダイアンは子供を捨てて出て行ってしまったため、二人は祖父母に育てられる。

 アイリーンによると、祖父は彼女を肉体的にも性的にも虐待したという。また祖母はアルコール依存症であった。彼女はかなり若い頃から複数の異性と性的な関係を持ったと語っている。相手には兄のキースも含まれていたという。14歳で妊娠した彼女は家族から縁を切られ、1971年にデトロイトの病院で子供を出産。その子はすぐに養子に出された。アイリーンは森の中の廃車の中で暮らすことを余儀なくされるが、後に未婚の母親たちのための施設に送られる。

 1971年に祖母が亡くなった後、学校を辞め、娼婦として生計を立てるようになる。1974年、飲酒運転中に車から銃を発射し、コロラドで逮捕される。その後ミシガンに戻り、1976年にはバーでの暴力行為で再び逮捕される。アイリーンは罰金を兄のキース(喉頭がんで21歳で死去)の生命保険で払い、残りの金を浪費した。同年、ヒッチハイク中にフロリダで69歳の裕福な男性ルイス・フェルに出会う。二人はすぐに結婚する。この結婚は彼女の人生を変えるチャンスであったが、アイリーンはフェルに辛く当たり、バーで暴行事件に巻き込まれるなどしたため、1ヶ月後にフェルにより結婚無効を申し立てられてしまう。

 1981年、フロリダで、ビキニ姿でコンビニエンスストア強盗を働いた容疑で逮捕。翌年刑務所に送られたが13ヶ月後に釈放。1984年にはキー・ウエストの銀行で偽造小切手を使用しようとした容疑で逮捕。1985年12月には銃と弾薬を盗んだ疑いがかけられ、11日後に無効な運転免許で運転していたために拘束された。1986年1月、重窃盗罪で逮捕。マイアミ警察は彼女が運転していた盗難車からリボルバー銃と弾薬を発見。同年、デイトナのゲイバーでティリア・ムーアという24歳の女性と出会う。すぐに恋人同士になり、一緒に暮らすようになる。ティリアはホテルのメイドの職を辞め、アイリーンが売春で稼ぐのを助けるようになる。二人の恋愛感情は1年ほどで冷めていったが、しかし信頼しあえる友人として一緒に行動し、安ホテルだけでなく古い納屋や森の中で夜を過ごすこともあったという。1987年、デイトナ・ビーチ警察は男性に対する暴行容疑でアイリーンとティリアを拘留。同年、アイリーンは無効な運転免許の保持、州間高速道路を歩行したことで召喚状を受ける。

 1988年3月、デイトナ・ビーチでバスの運転手に暴行を働いたと訴えられる。アイリーンは運転手が口論の末に彼女をバスから押し出したと主張。7月にはアパートでの破壊行為により大家から訴えられる。1989年頃には、彼女の振る舞いは明らかに常軌を逸したものとなっていく。好戦的になり、出かけるたびに誰かと口論を引き起こし、装填された銃を携帯するようになる。売春と盗みで生計を立てていたが、娼婦としては高齢であったことなどからなかなか客がつかなかったために必要最低限のものを買うのにも事欠くようになる。

 1989年、アイリーンを車に乗せたリチャード・マロリーというTV修理業を営む51歳の男性が最初の犠牲者となった。後に次々と5人の男性の遺体が見つかる。マロリーを除いた被害者は下記の通り。
・デイヴィッド・スピアーズ(重機オペレーター、43歳)
・チャールズ・キャルズカドゥーン(ロデオライダー、40歳)
・トロイ・バーレス(トラック運転手、50歳)
・ディック・ハンフリーズ(元警察署長、ソーシャルワーカー、56歳)
・ウォルター・ジーノ・アントニー(トラック運転手、60歳)
・ピーター・シームズ(キリスト教系新興宗教団体の伝道師、65歳、車は発見されたが遺体は見つからなかった)

 アイリーンとティリアは、犠牲者の一人ピーター・シームズの車を運転中に事故を起こしたことから捜査線上に浮かび、数ヶ月後に潜入捜査官の手により逮捕される。アイリーンはマロリーの件に対して、彼が彼女をレイプしようとしたためと正当防衛を主張したが、1992年に有罪判決を受ける。ティリアは警察に協力するようになっていた。同年11月にマロリーが別の州において暴力的なレイプ行為のために10年服役したことが明らかになったが、彼女に再審の機会は与えられなかった。

 1992年3月、アイリーンはディック・ハンフリーズ、トロイ・バーレス、デイヴィッド・スピアーズを殺害した容疑を認めた。6月にチャールズ・キャルズカドゥーン殺害容疑も認め、5つ目の死刑判決を受ける。1993年2月にはウォルター・ジーノ・アントニー殺害容疑も認めた。ピーター・シームズに関しては遺体が見つからなかったために起訴されなかった。アイリーンは彼女の犯した犯罪に関して、つじつまの合わない供述をしている。7人の男性を別々の機会に殺害したことを語っている。アイリーンは彼らにレイプされたと主張したが、後にその主張を撤回している。

 最初の死刑判決後、それこそが彼女が望んでいるものだと語った。2001年になると、なるべく早く死刑が執行されるようにと働きかけだした。彼女は「私はあの男達を殺して、冷酷に金品を奪った。そしてもう1度やるだろう。だから自分を生きたままにしておくのは何の益にもならない、また殺すと思うから。・・・自分は法的能力があり、正気で、真実を語ろうとしている。私は人間を憎み、また殺人を犯すだろう。」と語った。

 2002年10月9日、フロリダ州刑務所で薬物注射によって死刑が執行された。アイリーンは1976年の最高裁による死刑解禁判決以来、アメリカで死刑になった10番目の女性である。最期の晩餐は、予算2000円。 ケンタッキーフライドチキンのチキンとフライドポテトだった。2003年、アイリーンの伝記映画『モンスター』がアメリカで公開された。映画の中では特にアイリーンとティリアの関係に重点が置かれている。主演のシャーリーズ・セロンがアカデミー主演女優賞を受賞した。

 2002年10月9日死去(享年46)


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2017年03月11日

ゲイリー・ギルモア〜自ら望んで銃殺刑に処された殺人犯〜


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◆ゲイリー・マーク・ギルモア(Gary Mark Gilmore 1940年12月4日生)
 [アメリカ・犯罪者]


 1940年、テキサス州ウェーコに四人兄弟の次男として生まれる。両親は不仲で家庭内暴力が絶えない環境で成長する。10歳で盗みを始めて犯罪をしては逮捕されるのを繰り返した。高い知能と絵の才能があったにもかかわらず感化院、州刑務所、連邦刑務所と人生の半分以上を塀の中で過ごす。獄中でも凶暴で独房に頻繁に放り込まれ他の囚人に重傷を負わせたこともあった。強盗罪で有罪となり、11年の刑期を終えた1976年4月に出所後、ユタ州オレゴンに住む。そこで恋人と同棲を始めるが、またしても盗みを繰り返したため愛想を尽かされて出て行かれてしまう。

 7月19日、鬱憤が溜まって町をドライブしていた時、衝動的にガソリンスタンドを襲い強盗を働いた後、店員を射殺した。翌日もモーテルを襲い管理人を射殺した。この時の目撃者が元で逮捕された。

 10月の裁判では有罪となり、死刑を宣告された。ユタ州の死刑制度では死刑囚は執行形式を銃殺刑か絞首刑かのいずれかを選択することが出来るため、ギルモアは銃殺刑を選んだ。アメリカでは1967年の死刑制度再検討のためのモラトリアム実施以来、世界的な死刑廃止の潮流の高まりもあって死刑執行が停止されており、アメリカにおいても死刑廃止がいよいよ現実味を帯び始めたところだった。

 ところが、これ以上の刑務所生活を望まないギルモアは新たに弁護士を雇い「死刑にされる権利」を州知事に要求する。しかし叶わなかったことから恋人と同時刻に睡眠薬を飲み自殺を図るが失敗した。この頃には世界中のマスコミの注目の的になっており、ワシントンD.C.で開かれた死刑制度に関する連邦議会の公聴会にも証人として出席し、いくつかの意見を述べている。

 家族や死刑廃止団体が最後まで説得したものの、ギルモアは嘲笑し聞く耳を持たず、最終的には権利を勝ち取った。執行前にはハンガーストライキを行い、1977年1月17日、本人の希望どおりに複数の銃撃者により処刑された。末弟マイケル・ギルモアは、音楽ライターとなり、自身の一族の物語『心臓を貫かれて』を発表し話題を呼んだ。彼は他の兄弟とともに、一族の血を後世に残す気がないために子供をつくらなかった。

 1977年1月17日死去(享年36)


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2017年03月09日

宮崎勤〜世間を揺るがした幼女誘拐殺人犯の死〜


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◆宮崎勤(みやざきつとむ 1962年8月21日生)
 [シリアルキラー]


 東京都にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として出生。両親は共働きで忙しかったため、宮崎が産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている。幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていた。宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士であった。家族は祖父、祖母、両親、妹二人の7人。祖父は引っ込み思案な宮崎を連れて歩き、可愛がっていた。

 幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない『両側先天性橈尺骨癒合症』という当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があったが、両親は「障害児と周囲に思われたくない」「医師から放っておいても問題はないと言われた」と、積極的な治療を受けさせなかった。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何もしなかったため、非常に辛かった、と供述している。小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった。中学生時代は将棋部に所属、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着した。また通信教育で空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった。成績は上位であったが、国語と社会科を非常に苦手とした。

 1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野中学校・高等学校へ進学するが両親は、英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した、と勘違いしていた。同級生は、暗く目立たない少年だった、と証言している。高校時代は成績が徐々に落ち、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績で、その希望は果たせなかった。高校卒業後の1981年、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学。この頃はパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった。

 1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務。ある同僚は「勤労態度は極めて悪く、評判も非常に悪い」と評している。1986年3月に解雇。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる引きこもり生活が数ヶ月続いた。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いであった。この頃アニメの同人誌を発行するが、仲間から嫌われ、1回だけの発行で終わっている。

 1988年5月、祖父が死去。その3ヶ月後に第一の犯行を起こす。同年8月22日、4歳の女児Aを誘拐・殺害する。殺害後しばらくたち、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。10月3日、7歳の小学1年生の女児Bを誘拐・殺害する。こちらはすぐさまわいせつ行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていた。12月9日、4歳の女児Cを誘拐・殺害する。Cは失禁した。焦ったのか宮崎は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、Cの全裸死体が発見される。

 1989年2月6日、A宅に紙片と骨片などの入った段ボール箱を置く。2月10日には「今田勇子」名で女児A事件の犯行声明を朝日新聞東京本社に郵送する。11日には同内容の犯行声明をA宅に送った。3月11日、「今田勇子」名での告白文を朝日新聞東京本社とB宅に届けた。6月6日、5歳の女児Dを誘拐・殺害する。Dの指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べた。また、ビニール袋に溜まった血を飲んだ。6月11日、Dのバラバラ殺人遺体が発見される。幼女を殺すたび、自宅に藁人形を置いて部屋を暗くし、頭に鉢巻きをして蝋燭を数本付け、黒っぽい服を身に付け手を上げ下げし、祖父復活の儀式を執り行ったという。7月23日、わいせつ事件を起こそうとしていたところを被害者の父親により取り押さえられ、宮崎は強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された。

 その後、4件の犯行を自供。1990年12月20日より468日間にわたって、5人の精神科医と1人の臨床心理学者による精神鑑定が実施される。1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた。12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により678日をかけた再鑑定が始まる。1994年11月21日、父親が多摩川にかかる神代橋より投身自殺。父が自殺した事を知らされた時、宮崎は「すーっとした」と答えている。同年11月30日に鑑定書が提出される。第2回鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害の鑑定を出した。

 1997年4月14日、東京地方裁判所で死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。控訴するも、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。弁護側は、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日に最高裁第3小法廷は、弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。死刑確定後、宮崎死刑囚は手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望していた。これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。

 2008年6月17日、東京拘置所に於いて死刑が執行された。宮崎は冷静に執行を受け入れ、また宮崎の母親は遺体との面会後に、遺体の措置については拘置所に任せたという。犯行動機は未解明のまま、精神鑑定も継続中という状況だった。死刑確定から死刑執行までの平均は約8年であり、死刑確定から2年4ヶ月というスピード執行となる。宮崎の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られることはついに最期まで無いままであった。

 2008年6月17日死去(享年45)


posted by 亀蔵 at 07:03| Comment(0) | 刑死 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする