2017年05月28日

マイク・ブルームフィールド〜不眠症に悩みヘロイン中毒死したギタリスト〜


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◆マイク・ブルームフィールド(Mike Bloomfield 本名:マイケル・ベルナルド・ブルームフィールド 1943年7月28日生)
 [アメリカ・ギタリスト/歌手]


 イリノイ州シカゴのノース・サイドのユダヤ系の家庭に生まれた。少年期をサウス・サイドでシカゴ・ブルース・シーンで過ごす。1960年代初頭、CBSのディレクタージョン・ハモンドのオーディションを受けた後、ポール・バターフィールドの誘いでバターフィールド・ブルース・バンドに加入してリード・ギターを担当し、1965年デビュー作『The Paul Butterfield Blues Band』をエレクトラ・レコードから発表する。そのエレクトリック・スタイルのブルースは、シカゴのブルース・シーン自体にも影響を与え、多くのブルースマンがエレクトリック・ギターを手にするようになった。同年7月25日、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルにおいて、ボブ・ディランのバック・バンド、バターフィールド・ブルース・バンドに参加、フォーク・ロックの確立にも大きく貢献した。また、ディランがこの時期に制作していた『追憶のハイウェイ 61(Highway 61 Revisited)』にも、リード・ギタリストとして参加している。

 1966年、バターフィールド・ブルース・バンドは『イースト・ウエスト(East-West)』を発表する。LSDによる覚醒を元にジョン・コルトレーンの様にジャズやインド音楽などの影響を取り入れた新境地を開拓した。1967年、バターフィールド・ブルース・バンドを脱退し、シカゴ時代の盟友、バリー・ゴールドバーグ、ニック・グレイヴナイツ、そしてサンフランシスコで活躍していた若手のバディ・マイルスらとともにエレクトリック・フラッグを結成する。アメリカン・ミュージック・バンドとも称し、幅広い音楽性を志向した。ファースト・アルバム『A Long Time Comin』を録音した後、グループを脱退する。1968年、モビー・グレープのアルバム『Grape Jam』にセッション参加。同年、CBSのディレクターでもあったアル・クーパーからジャムセッション・アルバム制作の話を持ちかけられて、クーパーと共にアルバム『スーパー・セッション(Super Session)』を録音するが、ブルームフィールドは2日目のセッションに参加せず、スティーヴン・スティルスが代役を務めた。また、クーパーらと、1968年9月にサンフランシスコのフィルモア・ウェストで行ったライヴを収録した『フィルモアの奇蹟(The Live Adventure of Mike Bloomfield and Al Kooper)』を発表する。これらのアルバムによってセッション・ブームを巻き起こした。

 1969年にソロ・アルバム『イッツ・ノット・キリング・ミー』を制作、同時期にフィルモア・ウエストで録音をした『Live at Bill Graham's Fillmore West』を同年にリリースする。1970年代以降は目立った活躍が少なくなるが、1973年にジョン・ハモンド・ジュニアやドクター・ジョンとの『三頭政治(Triumvirate)』や、カーマイン・アピスらとのグループKGBでアルバムをリリースした。また、インディペンデントのレーベルに録音を残すなどしている。

 1981年2月15日、サンフランシスコの駐車場の車の中で、ヘロインのオーバードースとみられる症状により亡くなっているのが発見された。ブルームフィールドは長年にわたって不眠症に悩まされ、ヘロイン中毒の問題を抱えていた。

 1981年2月15日死去(享年37)


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2017年05月26日

穂積由香里〜積木くずしとその後の悲劇〜


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◆穂積由香里(ほづみゆかり 1967年12月16日生)
 [タレント]


 俳優・穂積隆信の長女であり、社会現象にもなった穂積隆信のベストセラー『積木くずし』のモデルである。

 1982年に発刊された『積木くずし』は、持病といじめにより、非行に走った由香里と両親の葛藤を赤裸々につづった手記。

 約300万部のベストセラーとなり、テレビドラマ化、映画化もされるなど話題を呼んだが、実名をさらされたことなどからかえって好奇の目やバッシングにさらされ、彼女自身の非行はエスカレートしていった。

 1983年にはトルエン所持で逮捕。覚醒剤取締法違反でも2度逮捕された。

 1986年に穂積由里の芸名でテレビドラマ『妻たちの課外授業』で女優デビュー。ヌードまで披露した芸能活動は成功せず、アメリカ留学中に知り合った男性と結婚するが、のちに離婚。クラブ「積木の家」を経営するなどしたが、亡くなる前は父とその再婚相手の後妻と同居し、知人のスナックの手伝いをしていたという。

 20代で腎臓を患って、十数年の闘病生活を送り、2000年には腎不全で入院。その年の秋には実母からの提供で生体腎移植を受ける。

 2003年8月18日、隆信夫妻と同居する都内のマンションの自室で亡くなっているところを発見された。行政解剖の結果、死因は多臓器不全で、13日夜から14日未明にかけて死亡したとみられる。35歳の若さだった。

 父は仕事先から帰京した8月20日に火葬場で遺体と無言の対面。棺には『積木くずし』を3冊入れたという。

 2003年8月18日死去(享年35)


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2017年05月21日

平和日佐丸〜妻の後を追い自殺した漫才師〜


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◆3代目平和日佐丸(へいわひさまる 本名:溝畑勲 1933年生)
 [漫才師]


 兵庫県生まれ。1954年に宝塚新芸座に入る。1956年秋に秋田Aスケ門下となり秋田Oスケと名のる。その後、横山ノック(秋田Kスケ)と漫才コンビ「秋田Oスケ・Kスケ」を結成。京都新京極・富貴で初舞台。1958年に松竹芸能に移籍。解散後、平和ラッパ(2代目)とコンビを結んで平和日佐丸(3代目)に改名。「ラッパ・日佐丸」の全盛期を築くが、ギャラの配分を巡って紛糾し、コンビを解消。

 のち、美人漫才師であった波多フラット(元園蝶世・花世の花世)とコンビを組み、その後、三田ホップの名で「三田ホップ・ステップ・ジャンプ」のトリオを結成。その後足の病気を患い入院。1968年に妻が不倫の末駆け落ちして失踪しそのまま心中自殺。これにショックを受け、後を追うように自殺した。

 1968年?月?日死去(享年35)


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