2017年05月19日

ブイコー・タマーシュ〜薬品やハンマーやナイフで惨殺された柔道家〜


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◆ブイコー・タマーシュ(Bujko Tamas 1959年7月1日生)
 [ハンガリー・柔道選手]


 ブダペスト出身。1981年のヨーロッパジュニア60kg級で優勝を飾り、1983年の世界選手権では銀メダルを獲得した。1984年のロサンゼルスオリンピックはハンガリーがボイコットしたために出場できなかった。1985年には階級を65kg級に上げると、世界選手権で3位になり、1986年のグッドウィルゲームズでも3位、1987年の世界選手権も3位だった。翌年のソウルオリンピックでは5位で大会を終えた。

 ブイコーは2004年にロンドンに移り住むと、食品加工会社に勤務するようになった。2007年9月に元の家にあった所有物を引き取るために戻ったところ、そこに代わって住み始めた同じハンガリー出身のイフィ・フェレンツと口論になった。その際にブイコーはイフィをゲイ呼ばわりすると、イフィの友達が見ている前でイフィに腕緘を仕掛けて恥をかかせた。この時の負傷に関して医者は打ち身と診断したが、イフィは骨折したと主張している。しかし警察は何の対応もしなかったことから、ブイコーに対する復讐を計画することになった。

 2008年3月21日の早朝、ハーロウにある地下鉄のサドベリー・ヒル駅の外側でイフィはブイコーを見つけると、塩化カリウムをブイコーの顔に投げつけた。ブイコーは悲鳴を上げて地面を転がり回って助けを求めるも、イフィはお構いなしにブイコーへパンチを浴びせて踏み付けた。さらに、ハンマーで何度となくブイコーの頭部を含めた全身を叩きまくった。続いて2種類のナイフでブイコーの顔や目を切り裂いた。ブイコーがイフィを何とか振り払おうとするが、今度はブイコーの指を削ぎ落とし始めた。その後、イフィは警察に身柄を拘束されたが、ブイコーは死亡した。なお、これは多数の通勤者が見ている前での惨劇だった。裁判の結果、イフィは終身刑を言い渡されたが、何の改悛の情も示さなかった。それどころか、ブイコーに対する怒りが今だに収まらないと語っていた。

 2008年3月21日死去(享年48)


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2017年05月18日

ピアス・カレッジ〜橋の欄干に激突死したレーサー〜


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◆ピアス・レイモンド・カレッジ(Piers Raymond Courage 1942年5月27日生)
 [イギリス・レーシングドライバー]


 エセックス州コルチェスター出身。イギリスのビール醸造メーカー、カレッジ・ブルワリーの経営者一族の出身。イートン・カレッジ卒業後、会計事務所で働くが、1963年に退職し、友人のジョナサン・ウィリアムズと本格的にレース活動を始める。1967年1月2日の南アフリカグランプリで、ロータスとBRMのシャシーを使用するプライベートチーム、レッグパーネルからF1デビュー。2年間在籍した後、1969年にはブラバムのシャシーを使用するフランク・ウイリアムズのチームに移籍、二度の2位表彰台を獲得する活躍を見せた。この活躍にフェラーリも誘いをかけるほどであったが、結局翌年も残留することとなった。

 1970年にチームは、デ・トマソのシャシーを使用していたが前年に比べ予選順位も奮わず、決勝レースでも完走を果たせずにいた。こうして迎えたザントフォールト・サーキットでの第5戦オランダグランプリにおいて彼の乗った車はイースト・トンネル手前の右コーナーでスピンし、外側ガードレールに衝突してコースアウト(このサーキットをよく知るジャッキー・イクスは、このコーナーでのカレッジのシフトワークが危険であるとカレッジ自身に注意を促していた)。さらにその先のイースト・トンネルの橋の欄干に激突し、コース横の草地に転落し炎上、カレッジは死亡した(車が炎上した時点で即死していた)。28歳の若さであった。フランク・ウイリアムズや特に親しかったヨッヘン・リントは彼の死により大きなショックを受けることとなった。

 1970年6月21日死去(享年28)


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2017年05月15日

白暁燕〜凄惨な殺され方をした女優の娘〜


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◆白暁燕(パイ・シャオイェン 1980年6月23日生)
 [台湾・白冰冰の娘]


 台湾の人気歌手、女優の白冰冰の(パイ・ピンピン)の一人娘として、日本人の漫画原作者梶原一騎との間に台湾で生まれたが、冰冰は暁燕が生まれる前に梶原と別居したため、暁燕は母冰冰の手元で育てることになった。成長するにしたがって、有名人である母親とともにテレビ出演する機会も増えた。

 1997年4月14日、暁燕は私立醒吾高級中学2年在学中に誘拐された直後、犯人グループから輪姦・暴行され、左手小指を切断された。母冰冰の元に輪姦された後の暁燕の半裸の写真と彼女の切断された小指、さらに助けを求める自筆の手紙が送りつけられ、500万アメリカ合衆国ドルの身代金が要求された。狙われた理由は諸説があるが、最大の理由は、長年に渡って台湾暴力団追放運動に携わっている白冰冰に対する報復であったといわれている。

 冰冰はなんとか身代金全額は揃えたが、現金の受け渡しに失敗。マスコミに情報が漏れ、中華日報と大成報が報道した為、引き渡し現場にマスコミが殺到する事態となり、暁燕は犯人グループのメンバーによって再度凄惨な輪姦・集団暴行を受け続けた果てに惨殺され遺棄された。

 4月25日に警察が犯人グループのアジトをつきとめて急襲し4人を逮捕したが、3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を取り逃がした。

 4月28日、台北近郊の河で両手両足を木杭にくくりつけられた暁燕の遺体が見つかった。膣と肛門には鉄パイプが突き刺さり、両手両足の爪はすべて剥がされ、目が抉り取られていた。内出血は数百ヶ所以上、顔は原形をとどめておらず、警察官すら凄惨さに驚いたという。遺体発見時の写真を一部の新聞が掲載し、身代金受け渡しの際のマスコミの不手際が殺害の原因になったため、メディアへの批判が高まった。時の総統李登輝は、「犯人らを発見次第問答無用で射殺せよ」との命令を発した。

 8月8日、逃亡中の犯人らは会社経営者を誘拐し、家族は警察に通報せずに身代金の支払いに応じて解放されるという事件を引き起こす。8月19日、台北市内で犯人グループ3人と警官800人との銃撃戦が起こり林春生が射殺された。10月23日、残る2人は台北市の整形外科病院で顔を強引に整形させた後、医師夫妻と女性看護師の3人を殺害して逃亡。11月17日、高天民が警官隊に包囲されると、再び銃撃戦を起こすが、逃げ切れずに拳銃で自殺した。最後の陳進興は11月18日、南アフリカ大使館の駐在武官官邸に人質5人を取って立て籠もり事件を起こした後投降し逮捕された。

 陳に対し板橋地方裁判所は1998年1月22日に5件の誘拐・殺人・強盗に対し死刑5回、別の暴行事件等で懲役刑合計59年9ヶ月を言い渡した。高等法院(日本の最高裁判所に相当)も1999年3月16日に遺族に対し1億7130万台湾元(当時のレートで約6億3000万円)の賠償命令を言い渡した。同年10月8日に陳の死刑が執行された。

 事件は台湾社会に大きな衝撃を与え、台湾の治安悪化が問題となった。警政署長は責任をとって辞任。事件に対するマスコミの興味本位の報道は惨殺を引き起こした原因とも言われており大規模な抗議行動が起こった。母親の白冰冰は事件後に手記「燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて」を出版。暁燕を記念して「白暁燕文教基金会」を設立、社会安全、道徳教育、誘拐被害者の心身のケアに関する法律の制定及び死刑の存続を訴え、事件の発生した4月14日に合わせて毎年活動を行っている。

 1997年4月19日死去(享年16)


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