2017年05月14日

野沢尚〜謎の自殺を遂げた人気脚本家〜


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◆野沢尚(のざわひさし 1960年5月7日生)
 [脚本家/小説家]


 愛知県出身。父親は、京都大学名誉教授で京都大学霊長類研究所の所長も務めた生物学者・野澤謙。愛知県立昭和高等学校、日本大学芸術学部映画学科卒業。シナリオライターになろうとしたきっかけは、中学時代から映画監督志望で、8ミリカメラで自主映画を作っていたが「映画はまずシナリオありき」と思い立ち、独学で始めたことであるという。1983年、映画『V・マドンナ大戦争』が第9回城戸賞に準入賞したことがきっかけとなり、プロの道を志すようになった。1989年、北野武の映画監督デビュー作『その男、凶暴につき』の脚本を手掛けたことでも知られている。テレビドラマや映画の脚本で高い評価を受ける一方、ミステリー小説にも幅を広げ、1997年に小説『破線のマリス』で第43回江戸川乱歩賞を受賞。1998年、『眠れる森』『結婚前夜』で第17回向田邦子賞を受賞した。

 2004年6月28日、東京都目黒区の事務所マンションで窓の取っ手に紐のようなものをかけ、首を吊って死んでいるところを妻によって発見された。野沢の突然すぎる謎の自殺は芸能・放送界に大きな衝撃を与えた。自殺の2ヶ月前に放送されたテレビドラマ『砦なき者』には、自殺をほのめかすかのようにテレビ業界への絶望が描かれている。自殺した際には知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残された。

 2004年6月28日死去(享年44)


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posted by 亀蔵 at 21:15| Comment(0) | 自殺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

猫田勝敏〜病魔に倒れた伝説の名セッター〜


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◆猫田勝敏(ねこだかつとし 1944年2月1日生)
 [バレーボール選手]


 広島県生まれ。小学校時に、バレーボールを始める。広島市立安佐中学校時代では、9人制でセンターを務めていた。崇徳高校に進み、当時の監督の稲葉正文に、セッターとしての素質を見出される。1959年の1年生時に、国体高校男子で優勝を果たす。

 1962年、高校卒業後、地元の日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業広島支店)に入社。専売広島男子排球部(現JTサンダーズ)に入部した。直後に、当時の全日本男子監督、松平康隆の目にとまり、同年12月、18歳で初めて全日本に選出される。

 1964年、20歳で東京オリンピックに出場し、銅メダルを獲得する。これ以降、猫田は全日本の正セッターとして不動の地位を築いていった。1968年、再び松平監督の下で、メキシコオリンピックで銀メダルを獲得。1971年9月、翌年にミュンヘンオリンピックが迫っていた中、試合中に西本哲雄と接触し右腕複雑骨折をしてしまう。オリンピック出場が危ぶまれていたが、約8ヶ月のリハビリ生活の末に、オリンピック開幕2ヶ月前の1972年6月、NHK杯で試合復帰を果たした。

 そして同年8月、ミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得、日本バレーを世界の頂点に導いた。1976年のモントリオールオリンピックでは日本選手団の旗手も務め、競技では4位入賞を果たした。1980年、ブルガリアで開催されたモスクワオリンピック最終予選を最後に、現役を引退。長年のバレーボール界に尽くした功労を賞されて、同年6月、日本バレーボール協会より「バレーボール栄誉選手賞」を受賞した。

 引退して直ぐに専売広島の監督に就任し日本リーグから采配を振るっていたが、1981年に胃癌に蝕まれていることが発覚。1983年9月4日、病魔には勝てず39歳の若さでこの世を去った。

 努力家であり人格者でもあり、生涯をバレーボールに費やした。奇策「天井サーブ」を編み出したことでも知られる。練習、合宿、遠征、試合の連続で家族を顧みることも出来なかったが、それを思ってか胃癌に侵された際の闘病中に「かあちゃん、すまん」という言葉を残した。幻覚症状の出た死の直前の病床でも、ブロックサインを出し続けたといわれる。最期の言葉は「後1本・・・、後1本・・・」であったという。

 1989年、偉業を記念して猫田記念体育館が広島市に完成した。2001年には国際バレーボール連盟の「世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞」を受賞した。

 1983年9月4日死去(享年39)


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2017年05月10日

沼崎勲〜過労死した俳優〜


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◆沼崎勲(ぬまざきいさお 1916年2月18日生)
 [俳優]


 神奈川県出身。1936年、J.O.スタヂオ俳優養成所入所。1937年、J.O.スタヂオが、P.C.L映画製作所などとの合併から生まれた東宝映画株式会社の設立により、東宝映画京都撮影所所属となる。1941年、『暁の進発』(東宝映画京都撮影所)で、初めて名前がクレジットされる。東宝映画京都撮影所閉鎖により、東宝映画東京撮影所に移る。戦時下でしだいに若手スターのひとりと期待されるようになるが、1944年に応召されビルマ戦線を転戦。1946年に復員し、東宝復帰。1947年、成瀬巳喜男監督『四つの恋の物語 第二話』、黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』に主演。映画ファンであれば誰でもその名を知る俳優となった。

 有名俳優となった矢先、東宝争議に巻き込まれ、東宝を退社。1950年には占領軍指令によるレッドパージにかかった。その後、独立プロを中心に活躍したが、1953年に藤原杉雄監督『赤い自転車』のクランクアップ前の8月16日、撮影の疲労による心臓麻痺のため自宅で急逝した。

 1953年8月16日死去(享年37)


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